ボクたちは羨ましいという感情を、嫌いに変換してしまう。
お金持ちが嫌いという人は多い。
それは自分がお金持ちという存在になれないと感じているから。
毎日、同じ時間に会社に行って、仕事をして、その繰り返しの中で生きている。
その生活を続ける自分の数年後の収入、生き様は会社を見回せば見当がついてしまう。
そうすると、お金持ちになれない自分の将来が簡単に見えてしまう。
だから、お金持ちはずるい、羨ましい、妬ましい。
その感情が嫌いという言葉になってしまう。
ボクは幼少期の家庭環境から、自分の感情を押し殺して生きてきた。
感情に素直でいられる人間をボクは幸せ者だと呼びたい。幼いころに、感情を抑圧されることを強制された人間は、大人になっても自分の感情が行方不明で、本当の自分も行方不明で。何のために生きてるのか分からないよ。
— 日下部まめ@雑記ブロガー (@MameMrm) 2018年11月20日
こんなツイートをすると、頭のおかしい人間かもしれないけど、これがボクの正直な感情だ。
だから、正直に自分の感情を出して、人生を楽しんでいる人を嫌いだと感じる。
昨日、職場の20代の女子学生3人とランチを食べに、大学の学食に行ってきた。
先日そのうちの1人と遊びに行ったのだけど、彼女はほとんど話さなかった。
それで、終始、僕が話し続けていたんだけど、つまらなかったのかなと悩んでいた。
それで、昨日「“何か話すことある?”って聞いたのに、何も話さなかったよね」と確認した。
すると、彼女は「ずっと勝手に一人で話してるから」と答えた。
ずっと勝手に一人で話してるから
ボクは彼女のその言葉に、彼女の人間性を見た気がした。
彼女は間を埋めるために、少しでも楽しんでもらうために、話し続けていたボクをそう捉えていたのかと。
彼女はその言葉を誰かに発することに対して、罪悪感も感じないのかと。
だから、もうボクは彼女をシャットアウトしてしまった。
ワガママなのかもしれない。
今まで感情を抑圧してきたボクだけど、これくらいのワガママは許されるだろうか。
この言葉がボクを傷つけたと感じたことは、ボクの感情抑圧を少し緩和させただろうか。
そして、ボクは改めて言葉選びには慎重にならないといけないなと感じた。
言葉というのは、簡単に今までの関係を崩してしまう。
信頼関係を築く過程で、その関係を崩してしまうと、再構築するのは難しい。
ボクにとって彼女とは同僚という存在でしかなく、食事に行こうとは思わない。
彼女の自由奔放な発言や行動を羨ましいと思う反面、可哀想だと思う。
可哀想という言葉は、他人を憐れんだ言葉だ。
だから、ボクは可哀想という言葉を使うのも、使われるのも嫌いだ。
でも、あえて彼女に使いたい。
あの言葉を発しても許される環境にいたのであれば、本当に恵まれていて、可哀想だ。